日本の牛は平安絵巻を見ても黒毛の牛。
牛車や農耕の為に飼われてきた。
肉は食べなかったかというと、畑を荒らすイノシシなどは昔から食べていた。
大阪城築城の際に、各地から牛が集められた。
その中で粘り強くパワーがあって評判が良かったのが但馬牛。
何しろ高地トレーニングをしていたからだ。
小代の農地は標高400mぐらい。
大阪河内の牛市場で高値が付く牛を育てていたのが、小代の前田周助(1797~1872)。江戸時代末期の頃だ。
小代には薬草に使用される山野草がたくさん生えていて、それを食べて育つ牛は他地域の牛より良い評判を取る。
その中でも良い母牛には良い子が生まれる事を感じ、牛の系統づくりを始めた。
メンデルの遺伝の法則が発表される前の事。
前田周助は良い牛を集め、その牛を親戚などに配って育ててもらう事で、地域振興策を展開した。おかげで小代牛は
大阪で名声をあげる事になった。
その頃、神戸港が慶応3年12月7日に開港することになった。
横浜からは神戸でビジネスチャンスを求めて、イギリス人のE・CキルビーとE・Hハンター(神戸の異人館ハンター邸で有名。日立造船の創始者)がやってきた。
キルビーは外国人や日本人に牛を食べさせようと考え、ハンターに牛を集めさせた。
その頃神戸といっても田舎で、米をあまり作っておらず、綿花や麦をつくっていた。
農家に行き、役目を終えた牛を売ってくれるようにハンターは農家を回った。
農家も年を取って役に立たなくなった牛を買ってくれるという事で、牛を集める事が出来た。
屠牛場は現在のポートタワーのあるあたりの酒蔵を借りた。
牛は殺してから熟成期間が必要だ。冷蔵庫のない時代。都合は良かった。
そこでハンターはサンプルに鞄に牛肉を詰め込んで歩いていた。
農家の人達も牛の肉に興味を持ち・・・というのはもともとイノシシは食べていた。
ハンターは農家にある鍬や鋤を使って薪で肉を焼いた。
このステーキが、後にすき焼きとよばれるようになった。
関東の牛鍋が元のすき焼きと、神戸で始めた鋤の上で焼くすき焼きの違いが理解できた。
このように外国文化が入ってきた明治の時代。
小代では小代牛と外国のデボン種の牛との交配が行われた。
結果これが失敗で、元々の小代牛の遺伝子はバラバラに消えてしまった。
・・・と思ったら小代の一番奥、熱田の地域に小代牛が残っていた。
大正時代。小代の貫田地区。
棚田の美しい場所だ。
ここで田尻号という雄牛が小代牛の中から生まれた。
前田周助は雌牛にこだわったが、この頃から雄牛が大事だという事がわかってきたようだ。
この田尻号によって、小代牛が近郊に広まった。
これが但馬牛の蔓牛の元になる。
そして牛の用途が荷役ではなく、食用になり、小代の牛が日本各地にばらまかれた。
とうぜん神戸にも子牛が送られ、神戸ビーフとして名声を得るようになった。
話は明治の神戸に戻って、神戸で一つの事件が起こった。
それが神戸事件。
備前の大名行列の途中に外国人が通ろうとして殺傷事件が起きた。
その責任を取って備前の警備責任者が切腹することになった。
この事件を担当する為に伊藤博文(当時は俊輔)が派遣された。
彼はイギリス留学経験があり流暢な英語で外国人たちに許すように嘆願したがダメだった。
しかしこの後、伊藤は神戸開港場外国事務一式の事例を受けた。
キルビーやハンターたちと親しくなり、整備が行き届いていない居留地の整備を行ったり、その後初代兵庫県知事に任命される。パーティーを開き外国人のアドバイスにより、神戸を近代的な街に整備した。
伊藤博文はその後、44歳で英語力を買われ、初代首相となる。
その伊藤博文の書の下で、神戸の魅力を発信しようとしていた出版会社が、すき焼きで打ち上げをしていたのが納得できた。
御所坊では今、すき焼きを積極的に販売しようとしている。伊藤博文の「高談娯心」・・・
高い志を持った者同士が集まって話をするとお互い楽しくなる。
この問題の多い社会情勢下、前向きに語り合う為に、すき焼きを食べようというのは強引かなあ?
この流れの中で抜けている年号や場所などを加えたりしてストーリーをもっとしっかりとしたものにしたい。
何かここまでつながると、僕自身が楽しくなってきた。
そしてかつて御所坊で伊藤博文が芸者や外国人たちと楽しんだのかと思うと、やっぱり歴史というモノはありがたいと思う。
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